まつろはぬもの〜松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生〜 シクルシイ著
北海道の海岸線を旅しながら読んだ本です。
北海道人にも、北海道を旅する人にも、多くの人に読んで貰いたい本でしたので紹介させて頂きます。
「まつろはぬもの〜松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生〜 シクルシイ著」
シクルシイ プロフィール
1918年(大正7年)4月29日、北海道屈斜路湖畔のコタン(アイヌの村)に生まれる。父は和歌山県出身の和人、母はコタンのエカシ(長老)弟子小太郎の娘。和名・和気市夫。
生後間もない頃から神童として知られ、それに目をつけた南満州鉄道(満鉄)理事の松岡洋右に選ばれ、英才教育を施される。4歳で高等小学校2年に編入、8歳で旭川商業学校2年に編入し仏・露・中国語などを学ぶ。
1929年(昭和4年)、11歳で満鉄傘下のハルピン学院に入学、英・仏・露・中の言語以外にモンゴル語・ラテン語・ギリシャ語などを学び、同時に体術・銃器・爆薬・無線通信・暗号などの教育を受ける
1931年(昭和6年)、13歳でロックフェラー財団に属する北京の燕京大学人類学部多言語科に入学。「薫之祥(クン・ズシアン)」の中国名で主に学術調査を行いながら、中国・中央アジア・アフリカ・アメリカの各国を回る。この間に「北千島アイヌ語」に関する博士論文を書く。
1938年(昭和13年)、20歳の時に帰国して陸軍情報部付少尉となり、松岡の命を受けてアジア各地で「日本軍の戦闘中に起こった暴虐行為の真偽の調査」などを1945年(昭和20)まで行なう。
1945年8月16日、中華民国政府公安部によって逮捕され、拷問・土牢拘置を経て、46年、東京国際軍事法廷での松岡洋右(戦犯容疑)の重要参考人兼戦犯容疑者としてアメリカに引き渡されるが、松岡の死去により不起訴となる。
戦後はGHQ本部で軟禁状態で働かされた後、第一生命保険相互会社の人権問題研修推進本部理事会の顧問などを務めた。
2000年(平成12年)10月23日、肺気腫で死去。享年82。
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