› ひるまのながれぼし › ◇環浜名湖探検隊
2015年04月05日
2015年01月10日
東海地震での減災に繋がるよう願いを込め発信します。
将来に来る東海地震での減災に繋がるよう願いを込め発信します。
◇1498年 明応地震 津波被害は極めて甚大。浜名湖が外海と繋がり、太平洋沿岸にかけて数万人が津波に飲まれた。
◇1707年 宝永地震 大津波の後、49日後に富士山噴火。
◇1854年 安政東海地震 32時間後に安政南海地震が発生。関東から中国に及ぶ広い範囲に影響を与えた。舞阪への到達津波は約6m。
◇1944年 東南海地震 津波は伊豆半島から紀伊半島まで 37日後に三河地震が発生 被害は甚大であったが戦時報道管制の下に報道は厳しく規制された。
以下は舞阪町立郷土資料館 第8号より抜粋
舞坂宿を襲った安政東海地震
◯ 安政東海地震発生 嘉永7年(安政元年)11月4日五ッ半すぎ(グレゴリオ歴1854年12月23日、午前9時頃)、東海道を中心に関東から近畿に及ぶ広い範囲に被害をもたらす大地震が発生した。被害の最もひどかったのは沼津から天竜川河口までの静岡県の海岸であった。震源は東海道沖(北緯34.0度・東経137.8度)で、地震の規模を表すマグニチュードは8.4である。建物の倒壊・焼失は約3万軒、死者は2〜3千人の被害が出たと推測される。
そして32時間後の翌11月5日、申の中刻(1854年12月24日、午前4時頃)、近畿・四国を中心に東海から中国に及ぶ広い範囲に影響を与える大地震が起こった。震源は南海道沖(北緯33.0度・東経135.0度)でマグニチュードは8.4である。前者は「安政東海地震」、後者は「安政南海地震」と呼ばれている。
◯ 舞阪の震度 安政東海地震による舞阪の震度(ある地点における地震動の強弱)は6の列強(家屋の倒壊は30%以下で山崩れが起き地割れを生じ多くの人が立っている事ができない程度の地震)と推定される。
◯ 舞阪を襲った津波 津波は地震発生約15分後に舞阪を襲った。津波の高さは港付近で5.6m(西町角屋)、新町・一里塚で2.5m、弁天島で3〜4mと推測される。津波の高さは宿内に侵入するに伴って急速に衰退したと思われる。
嘉永7年11月に舞坂宿の被害を書き記した「大地震津浪荒潰家破損所ヶ所付書上」(『舞阪町史』資料編6-519頁)は「去る四日大地震引続高弐丈余之津浪宿囲石垣打砕町並江揚上ヶ水勢烈敷宿内より辰巳之方字小草場二而汐除土堤打切り潮水押込宿内東西共海面二罷成(地震に引き続き高さ2丈〔6m〕余りの津浪が宿囲の石垣を打ち砕き宿内に侵入してきた。波の勢いは激しく宿内より辰巳〔東南〕の方角の字小草場で汐除土堤を決壊させ、潮水〔遠州灘の水〕が押し込んできて宿内の東側と西側はともに海面のようになってしまった)」と報告している。
◯ 舞阪の被害 地震と津波で舞坂宿は流失家8軒、潰家8軒、半潰家58軒、破損家214軒の計288軒の住居が被害にあっている。8年後の文久2年(1862年)の「宿内軒別坪数・畳数書絵図面」に記された総軒数282軒を宿全体と仮定すると、宿内のほとんどが何等かの被害を被ったことになる。
◯ 弁天島の被害 宝永6年(1709年)建立の弁天社(弁天神社)は大破し、弁天島の松は立ち枯れになってしまった。
◯ 拝借金 地震被害による住居建築の拝借金は金617両永20文におよんでいる(明治4年6月東海道舞坂宿「拝借金口々取調奉書上帳」『舞阪町史』史料4-370~371頁)。
◯ 紀州藩への被害報告 地震から20日余りに経った嘉永7年11月27日に、紀州藩役所へ地震津浪被害届(1頁の古文書)が出されている。「去る4日の地震と津浪により両本陣は大破、旅籠屋10軒ほどは小破ですのでお泊まりになることができます。」と報告している。
◯ 災害による改元 地震後の旧暦11月27日、内裏炎上と黒船渡来の理由を含めて嘉永から安政への改元が行われた。過去、地震により改元した例に嘉保3年(1096年)の東海沖地震による永長へ、元禄16年(1703年)の元禄地震による宝永へ、などがある。
個人的追記
・舞阪の前の川より南側は昭和19年後の造成地です。次回の津波では最も被害が出る可能性があります。大地震により前の川を渡る記念橋が崩落している事を想定してとにかく早く津波から逃げて下さい。
・東海地方に住む我々の世代は、ごく最近に起こった大地震の事さえも知らないのが現状です。自然ガイドとして、地震津波科学災害も伝えていく姿勢でおります。
にほんブログ村
◇1498年 明応地震 津波被害は極めて甚大。浜名湖が外海と繋がり、太平洋沿岸にかけて数万人が津波に飲まれた。
◇1707年 宝永地震 大津波の後、49日後に富士山噴火。
◇1854年 安政東海地震 32時間後に安政南海地震が発生。関東から中国に及ぶ広い範囲に影響を与えた。舞阪への到達津波は約6m。
◇1944年 東南海地震 津波は伊豆半島から紀伊半島まで 37日後に三河地震が発生 被害は甚大であったが戦時報道管制の下に報道は厳しく規制された。
以下は舞阪町立郷土資料館 第8号より抜粋
舞坂宿を襲った安政東海地震
◯ 安政東海地震発生 嘉永7年(安政元年)11月4日五ッ半すぎ(グレゴリオ歴1854年12月23日、午前9時頃)、東海道を中心に関東から近畿に及ぶ広い範囲に被害をもたらす大地震が発生した。被害の最もひどかったのは沼津から天竜川河口までの静岡県の海岸であった。震源は東海道沖(北緯34.0度・東経137.8度)で、地震の規模を表すマグニチュードは8.4である。建物の倒壊・焼失は約3万軒、死者は2〜3千人の被害が出たと推測される。
そして32時間後の翌11月5日、申の中刻(1854年12月24日、午前4時頃)、近畿・四国を中心に東海から中国に及ぶ広い範囲に影響を与える大地震が起こった。震源は南海道沖(北緯33.0度・東経135.0度)でマグニチュードは8.4である。前者は「安政東海地震」、後者は「安政南海地震」と呼ばれている。
◯ 舞阪の震度 安政東海地震による舞阪の震度(ある地点における地震動の強弱)は6の列強(家屋の倒壊は30%以下で山崩れが起き地割れを生じ多くの人が立っている事ができない程度の地震)と推定される。
◯ 舞阪を襲った津波 津波は地震発生約15分後に舞阪を襲った。津波の高さは港付近で5.6m(西町角屋)、新町・一里塚で2.5m、弁天島で3〜4mと推測される。津波の高さは宿内に侵入するに伴って急速に衰退したと思われる。
嘉永7年11月に舞坂宿の被害を書き記した「大地震津浪荒潰家破損所ヶ所付書上」(『舞阪町史』資料編6-519頁)は「去る四日大地震引続高弐丈余之津浪宿囲石垣打砕町並江揚上ヶ水勢烈敷宿内より辰巳之方字小草場二而汐除土堤打切り潮水押込宿内東西共海面二罷成(地震に引き続き高さ2丈〔6m〕余りの津浪が宿囲の石垣を打ち砕き宿内に侵入してきた。波の勢いは激しく宿内より辰巳〔東南〕の方角の字小草場で汐除土堤を決壊させ、潮水〔遠州灘の水〕が押し込んできて宿内の東側と西側はともに海面のようになってしまった)」と報告している。
◯ 舞阪の被害 地震と津波で舞坂宿は流失家8軒、潰家8軒、半潰家58軒、破損家214軒の計288軒の住居が被害にあっている。8年後の文久2年(1862年)の「宿内軒別坪数・畳数書絵図面」に記された総軒数282軒を宿全体と仮定すると、宿内のほとんどが何等かの被害を被ったことになる。
◯ 弁天島の被害 宝永6年(1709年)建立の弁天社(弁天神社)は大破し、弁天島の松は立ち枯れになってしまった。
◯ 拝借金 地震被害による住居建築の拝借金は金617両永20文におよんでいる(明治4年6月東海道舞坂宿「拝借金口々取調奉書上帳」『舞阪町史』史料4-370~371頁)。
◯ 紀州藩への被害報告 地震から20日余りに経った嘉永7年11月27日に、紀州藩役所へ地震津浪被害届(1頁の古文書)が出されている。「去る4日の地震と津浪により両本陣は大破、旅籠屋10軒ほどは小破ですのでお泊まりになることができます。」と報告している。
◯ 災害による改元 地震後の旧暦11月27日、内裏炎上と黒船渡来の理由を含めて嘉永から安政への改元が行われた。過去、地震により改元した例に嘉保3年(1096年)の東海沖地震による永長へ、元禄16年(1703年)の元禄地震による宝永へ、などがある。
個人的追記
・舞阪の前の川より南側は昭和19年後の造成地です。次回の津波では最も被害が出る可能性があります。大地震により前の川を渡る記念橋が崩落している事を想定してとにかく早く津波から逃げて下さい。
・東海地方に住む我々の世代は、ごく最近に起こった大地震の事さえも知らないのが現状です。自然ガイドとして、地震津波科学災害も伝えていく姿勢でおります。
にほんブログ村
2013年12月11日
2013年12月10日
「僕らのカヌーができるまで」の映画を静岡県西部にて上映したいです。
「僕らのカヌーができるまで」
この映画の上映を環浜名湖(浜松・湖西・三ヶ日・都田・引佐・浜北等が環浜名湖になります)で催したい気持ちがあります。
そしてそれは皆で催したい気持ちです。
皆で語り合いながら、日時や上映場所を決めていきませんか?
まずは話し合いなどの飲み会が開催できたらと考えております。
また、子供達や赤ちゃんも一緒にワイワイギャーギャーと映画を見る事ができたらと考えております。
よろしくお願い致します。
鈴木克章
にほんブログ村
この映画の上映を環浜名湖(浜松・湖西・三ヶ日・都田・引佐・浜北等が環浜名湖になります)で催したい気持ちがあります。
そしてそれは皆で催したい気持ちです。
皆で語り合いながら、日時や上映場所を決めていきませんか?
まずは話し合いなどの飲み会が開催できたらと考えております。
また、子供達や赤ちゃんも一緒にワイワイギャーギャーと映画を見る事ができたらと考えております。
よろしくお願い致します。
鈴木克章
にほんブログ村
2013年12月06日
環浜名湖探検隊 浜名湖に注ぐ川の源流を巡る〜この川の水はどこからきているのか〜
「環浜名湖探検隊」
浜名湖をディープに探っていく環浜名湖探検隊。
シーカヤック日本一周の海旅が終わってからは、ここのフィールドを舞台に自然体験プログラムを紹介していこうと考えております。
第二回目目の今回は、浜名湖に注ぐ川の源流を探検してきました。
山に降りそそいだ雨はこうして浜名湖へと旅をするのですね。
そして浜名湖から外洋へ。
この源流は私にとって未知の領域です。
未知が大好きな私としては、胸の高まりを押さえる事ができない場所でした。
次回は更にここから沢を登って行きます。
身体が透明人間になったかの様な、非常に透き通った雰囲気のある場所。
大切に丁寧に沢を登っていきたい思いです。
素敵なフィールドに出逢えた事に感謝です。
にほんブログ村
良かったら「ひるまのながれぼし」をクリックして環浜名湖探検隊を応援して下さい。
浜名湖をディープに探っていく環浜名湖探検隊。
シーカヤック日本一周の海旅が終わってからは、ここのフィールドを舞台に自然体験プログラムを紹介していこうと考えております。
第二回目目の今回は、浜名湖に注ぐ川の源流を探検してきました。
山に降りそそいだ雨はこうして浜名湖へと旅をするのですね。
そして浜名湖から外洋へ。
この源流は私にとって未知の領域です。
未知が大好きな私としては、胸の高まりを押さえる事ができない場所でした。
次回は更にここから沢を登って行きます。
身体が透明人間になったかの様な、非常に透き通った雰囲気のある場所。
大切に丁寧に沢を登っていきたい思いです。
素敵なフィールドに出逢えた事に感謝です。
にほんブログ村
良かったら「ひるまのながれぼし」をクリックして環浜名湖探検隊を応援して下さい。
2013年12月04日
環浜名湖探検隊 「同級生の舟に乗りアサリ漁に同行する」
静岡県浜名湖の風景
これから少しずつですが、普段になかなかに見る事ができない浜名湖の風景を紹介していきます。
第一回目は、「同級生の船に乗り、アサリ漁へ。」
改めて汽水湖である浜名湖の豊さと、海のある暮らしを見つめています。
浜名湖は太平洋側で最大の汽水湖(海水と淡水が混ざった湖)です。
海岸線の出入りが多く、総延長は103キロもあり全国3位の周囲長です。
牡蠣・海苔・鰻・スッポン・アサリでも有名です。
淡水塩水の両方の魚類や貝類が見られる為、魚類は300種類以上、貝類は約100種類、エビカニ類は約60種類が生息していると言われています。
風光明媚な土地でもあり、縄文時代から人々はこの土地に住み着いております。三ヶ日人ですね。
以前は旧石器時代の人骨として三ヶ日原人として扱われていたのですが、
現在では精密な放射性炭素法で約8200〜1万1000年前の縄文時代の人骨と測定されています。
それでも、浜松市北区の「浜北人」は約1万7900年前の旧石器時代の人骨とされています。
また、浜名湖周辺からはナウマン象の化石やワニの化石が見つかっております。
関東と関西の中間地点である浜名湖は、通過点として多くの方々が存じている湖。
そんな浜名湖の風景にスポットをパッと照らしてみたいと思います。
また概念としては、環浜名湖として捉えていきます。
通年を通した風景としてアサリ漁を見る事ができます。
普段に食しているアサリも、この様な過程を経て口にできる訳なんですね。
そしてアサリ採りを少し体験させて貰いましたが、こりゃあビックリな重労働でございました。
また、ニシ貝やツメタ貝、カガミ貝やサルボウ貝にバフンウニ、あまり表に出ない食材ですがちょいとこれらで晩御飯を作ってみようと思います。
船長のカンチャンよ、貴重な時間をありがとうね。
にほんブログ村
これから少しずつですが、普段になかなかに見る事ができない浜名湖の風景を紹介していきます。
第一回目は、「同級生の船に乗り、アサリ漁へ。」
改めて汽水湖である浜名湖の豊さと、海のある暮らしを見つめています。
浜名湖は太平洋側で最大の汽水湖(海水と淡水が混ざった湖)です。
海岸線の出入りが多く、総延長は103キロもあり全国3位の周囲長です。
牡蠣・海苔・鰻・スッポン・アサリでも有名です。
淡水塩水の両方の魚類や貝類が見られる為、魚類は300種類以上、貝類は約100種類、エビカニ類は約60種類が生息していると言われています。
風光明媚な土地でもあり、縄文時代から人々はこの土地に住み着いております。三ヶ日人ですね。
以前は旧石器時代の人骨として三ヶ日原人として扱われていたのですが、
現在では精密な放射性炭素法で約8200〜1万1000年前の縄文時代の人骨と測定されています。
それでも、浜松市北区の「浜北人」は約1万7900年前の旧石器時代の人骨とされています。
また、浜名湖周辺からはナウマン象の化石やワニの化石が見つかっております。
関東と関西の中間地点である浜名湖は、通過点として多くの方々が存じている湖。
そんな浜名湖の風景にスポットをパッと照らしてみたいと思います。
また概念としては、環浜名湖として捉えていきます。
通年を通した風景としてアサリ漁を見る事ができます。
普段に食しているアサリも、この様な過程を経て口にできる訳なんですね。
そしてアサリ採りを少し体験させて貰いましたが、こりゃあビックリな重労働でございました。
また、ニシ貝やツメタ貝、カガミ貝やサルボウ貝にバフンウニ、あまり表に出ない食材ですがちょいとこれらで晩御飯を作ってみようと思います。
船長のカンチャンよ、貴重な時間をありがとうね。
にほんブログ村